十三まいりのお寺/太平寺
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 当時の創草は往古、四天王寺の寺域にあった一堂宇であったと推察されます。
四天王寺周辺の地名や今日では境外にある塔頭寺院等から明らかなように、創建当初の四天王寺は現在より遥かに広大な寺域と多数の堂塔を有していましたが、年を経て寺域が縮小するにともない多くの堂舎が境外に取り残されました。こうしてできた寺院の一つが川中島の合戦のあった弘治乙卯元年(1555年)のころ、すでにこの地に存した隆翔寺という真言宗の寺で、これが太平寺の前身であります。
 それを今より三百十数年前の寛文三年(1663年)、加賀国大乗寺二十一世の超山ァ越大和尚が荒れた諸堂を復興し、幕府に願い出て曹洞宗に改め譲国山太平寺と称したことが大乗寺の旧記に見られます。(『加賀大乗寺史』によります)即ち太平寺の開山であります。
 このころの物としては「天啓甲子(明の熹宗の四年)(1624年)の銘のある中国鐘や江戸初期の旧山門の鬼瓦が残っております。
 加賀の大乗寺は曹洞宗開祖道元禅師の開かれた大本山永平寺の第三世徹通禅師が開山でありますが、大乗寺二世瑩山禅師は大本山総持寺の開山であり、同時にまた「規矩大乗」の名で知られた禅の厳しい修行道場で、宗門きっての名刹であります。
 従って太平寺もまた禅の道場として全国から修行僧が集まって来ました。二世丹厳道融大和尚は超山門下の俊秀として名を留める禅僧であるが、特に四世大休玄密大和尚は後に石州津和野の亀井侯に請われ、その菩提寺で坂崎出羽守の墓のある永明寺に移った名僧であります。
十三まいりのお寺/太平寺 十三まいりのお寺/太平寺
下部に六つの切れ込みのある鐘(六葉鐘)で中国鐘の特徴をよく伝えております。
上部はペルシャ風の文様になっております。
十三まいりのお寺/太平寺
戦災で焼失した山門の鬼瓦。
桃山時代末期、ないし江戸時代初期の作風を伝えております。
 太平寺の禅堂を建て直して結制修行した時には、全国から集まった雲水が秋の落葉が庭前を埋めるように山内に満ちあふれたと記録されております。元禄年間のことであります。
 こうして太平寺は大坂にあって重要な地位を占め、幕末まで歴代の住職には朝廷より「應ジテ敕(勅)請ニ宜シク奉ルベキ国家安全ト宝祚長久ヲ、者ナリ依ツテ天気執達如シ件ノ(官職・署名・花押)」という綸旨が下され(現存四通)、また加賀藩大坂蔵屋敷の菩提所として庇護を受け、高い格式と隆盛を誇りました。
 現在本堂の前にある石の大鳥居は神仏混交の遺物ではなく廃藩置県の際、蔵屋敷内にあった前田家(本姓菅原氏)の先祖道真公を祀る天神宮を移したもので、神仏分離の真最中に神社を寺に持ち込んだのはまさに歴史の皮肉といえましょう。それはともあれ、立派な神殿や拝殿は、位牌堂に安置されていた歴代藩主の見事な位牌とともに昭和二十年の戦災で惜しくも焼失してしまいました。

 
 
 
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